武蔵と大和という戦艦は、それまで人類史上かつてない巨大艦であった為、建造には様々な新技術を必要とした。
吉村 昭著「戦艦武蔵」を読むと、そのときの技術者達の努力と英知が「戦時」という時代背景を超えて伝わってくる。
さて、このなかに面白い場面がある。
巨大艦を建造する、ということは船を作るだけでなく、まず船を作るための船台や進水台を作らねばならない。
武蔵の場合、艦が巨大である為に、この進水台の建造に既存の技術や道具が全く通用しなかった。特に進水台は重い船体が滑って行く台なので、強靭な松が材料として使われるが、万が一、進水中に松が割れてしまっては、巨大な戦艦が横倒しになり、戦艦自体も海に浮かぶことなく壊れてしまうし、何より多くの人命に関わる。この幅は4mが必要だ。当時、世界最大幅である。
その為、幅44cmの米松の角材を横に9本並べて、横腹を鉄のボルトでくし刺しにして固定させなければならない。
ボルトの直径は5.5cmだが、つまりは松にそれと同じ直径の穴を開けなければならない。そんな錐などあるはずもなく、まず錐作りから始めたのだが、問題はその後だ。
ボルトを差しこむ為には、幅4mの松材に穴あけ作業を行うのだが、誰も真っ直ぐに穴をあけられないのだ。そのため設計者達は特に優秀な穴開け専門の熟練工を選んで集め、連日作業に関わらせた。
ところが10日経っても、20日経っても誰一人として、まっすぐに穴あけが出来ず、終には音を上げてしまった。
普通ならここで我々は、熟練工が出来ない作業なら、なおさら素人では無理で、これは諦めなければならないと考えてしまわないだろうか。
しかし当時の設計者、技術者達は違った。熟練工でも手におえない作業なら、素人工を訓練させて従事させても同じで、熟練工は他の必要な作業に回し、素人工を穴あけの主力に配置換えした。
彼ら素人工は毎日、穴あけ作業だけを訓練として行った。実にその期間2年である。穴がまれにまっすぐに進むようになったのは訓練開始から1年半が過ぎた頃で、それまではくる日も来る日も、錐で穴を開けては失敗する。手のひらが血に濡れそれが乾いて厚い皮膚に変わるという肉体的苦痛に加えて、毎日「失敗する」「仕事が無に帰す」という精神的ストレスと戦っていたのだ。
これはおそらく職人技をもった熟練工には無理な作業であったろう。先が見えすぎてやる気が起きない、ということもあろうし、失敗のストレスというものを、職人技を持つもののプライドが受け入れられない、ということもあろう。
我々、介護の世界でも共通する部分がある。一見無駄で、必要のない事柄・時には無駄と思える事柄であっても、地道にそれを行う結果が新しい発見を生み出すことがある。特に人間相手のサービスで、人間関係を土台とせねばならないのだから、熟練の技も必要だが、作業では片付けられない部分が必ず出てくる。
本当の意味の熟練とは、介護の世界に限って言えば、作業的技術に、人間としての温かな視点が加わらなければならないものだろう。
おむつ交換やシーツ交換の作業手順が鮮やかでも、それを利用する高齢者の心に負担をかけるケアであっては決して熟練技とはいえない。
また別の視点を考える時、新しい制度の中で介護の現場も、いくつもの改革の必要性に迫られる。
そのとき熟練技が改革の足かせになってしまう施設や事業所は、この制度からはじき出されてしまうかもしれない。
心してかからねばならないと思う。