日課がないということは、個人が好きな時間に起きて、食事時間も不規則で、夜不眠の日が続いても、それに対応できればよく、着替えも整容も気が向いたときに行えばよい、という考えではない。
人には生活リズムというのが重要なのだ。
朝起きて、日中は活動的に過ごし、夜眠られる、という生活が体内時計のリズムを刻み、それが健康で幸福な生活の前提条件になるのだ。ある程度、生理パターンにあわせた生活作りは援助が必要で、個人ごとにそれは微調整されるもの。
日課のないサービス提供ができる、という本来の意味は、ホーム側の決め事に利用者を合わせるのではなく、利用者自信の希望や状態に合わせてサービスを提供する、という意味であって、利用者個人々の習慣に基づく日課や生活リズムは大切にしなければならない。
食事時間や入浴時間や就寝時間が毎日、気分によって変わってしまうような生活が日課のない生活の意味ではない。
逆に、それが乱れている方には、一定の生活パターンを取り戻す援助を行わなければならない。
そしてその方法論が、過去の生活暦や習慣を取り入れ、できないことより、できることに目を向けて共に過ごす中でケアサービスを提供するという「生活支援型ケア」の基本である。
日課というよりペースというほうが、よリ適切かもしれない。
人間は生活者である以上、生活には個々人のペースやパターンがある。それゆえ、誰から決められたわけでもないけれど、食事や入浴時間というもはそれぞれの家庭や個人で一定のペースにより行われているのだ。
グループホームの重要なもう一つのコンセプトは家庭で暮らしていた頃の生活習慣を守って、混乱を防ぐ、とこともある。
毎日、食事前に入浴していた方の生活習慣、夕食後にゆっくり過ごして寝る前に入浴していた方の生活習慣、それらを継続される事を望んでいる利用者も多いという意味のみならず、それを思い出すことで自らの体に染み込んだ生活パターンを取り戻して安定した生活につながるという意味もあるのだ。
朝の連続テレビ小説を何十年も欠かさず見ていた方が、病気をきっかけにしてその生活習慣が崩れた。その後時間の認知が悪くなって見当識が悪化してしまった。こういう方に大好きだった朝の連続テレビ小説を見ることだできるよう、決まった時間に職員が誘導してテレビをいっしょに見ましょう、と誘導する。そしてそれによって時間の混乱が防げて、認知の改善に繋がる、なんていうサービスも立派なケアサービスだ。
このことを誤解して、勝手に解釈して、不健康で混乱がいっぱいの生活を作ってはならない。
グループホームに限らず、従来型施設でもユニットケアを取り入れる際、この日課のない生活を誤解して、何もしないで、日がな1日、居室で過ごしても、それが利用者の希望だから問題ない、としている施設もある。集団的な活動を全て否定する職員がいる。
馬鹿げている。
活動参加できるメニューは大切なのだ。要は、それに参加する、しないと言う選択ができるかという部分と、そのほかに選択性があるか、ということが重要なのだ。
参加をしないと、一時的判断で拒否する方の「心が動く」働きかけやサービスメニューは必要なのだ。
心が動く働きかけをしないで、何もしないことが希望や自由だというのは、「何にもできない不自由」を生活の中にはびこらせてしまうことに他ならない。