Allo介護の不思議な世界

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おろおろ福祉



Welfare を「福祉」と訳した先人は、この言葉にどのような思いをこめたのであろうか。



福祉とは、生活欲求が満たされた状態を言うそうである。



また福祉の「福」は心の豊かさを表す意味があり、「祉」は物質的な豊かさを表す意味があるという。



つまり福祉という言葉は、まずその基盤に物質的な豊かさがあり、その基盤の上に心の豊かさが成立する、という意味を表しているといえる。



しかしこの物質的な豊かさとは、決して贅沢な状態を指すものではないだろう。



そもそも福祉の歴史と、それに関する援助や制度の成り立ちを見たとき、それは貧困との戦いから始まったといえ、まず食べること、生きることに必要な生命の糧となる物質の提供という命題があったことが見て取れる。



児童福祉の成り立ちだって、もともとは食べるために、生きるために、骨格が固まる前の幼い頃から過酷な強制労働を強いられる児童を救おうとするところから始まっているのだ。



マズローの欲求段階説も、まず生理的欲求や安全の欲求が満たされないと、次の段階にある愛情欲求や、承認(自我)欲求、自己実現欲求に繋がらないというふうに、基盤となる欲求部分が満たされることによってしか、人間らしい思考や行動には結びつかないことを示している。



我々は現在の生活においては、常に飢えや渇きに苦しむことにおびえる、という状態を想像することはない。



しかし世界に目を向けると、飢えや渇きが深刻な問題となっている国や地域は数多くある。



この国の歴史を見ても、江戸期でさえ(しかしそれはわずか百数十年前の話である)大きな飢饉に見舞われ、たくさんの人々が餓死している。そういう状況で心の平安などは求められるはずもない。



芥川賞作家の三浦 哲郎氏の作品に「おろおろ草子」という短編がある。



これは江戸期の天明の大飢饉を扱った小説で、舞台は三浦氏の故郷でもある南部盛岡藩領地(現在の岩手県盛岡市周辺)である。



東北地方は土地が痩せていることもあり、それまでも何度も冷害や旱魃による飢饉を経験したが、天明の大飢饉の際は、この世の地獄図が展開された。町からまず野良犬が消え、家畜の馬が消えた。



もちろん食料になったのである。



そして餓死者が増えるにつれ、行き倒れの死体が路上に転がるようになる。しかしいつしかその死体が消えてしまっている。人喰いが始まる。そしてその犠牲は、死体から生きるものの弱者(老人や子供)へと広がる、という地獄図に繋がっていく。



これは当時の裁判記録ともいうべき記録に残されている事実だ。あるものは自分の親を食い、子を食った。あるものは、さすがに自分の子を食うことはできなかったのか、他人の死体と交換する、という記録までがある。



まさに、おろおろしい世界である。



しかしそれらの人々の常軌を逸した異常が我々と全く無縁の場所にあるのか。そうではないだろう。



福祉の実現とは、少なくとも人としての根源的欲求を満たして始めて実現の1歩を踏みだすものだ。そしてその根源的なものは単に生かされる最低限のではないはずで、時代や環境とともに変化して考えられねばならない。



10数年前、札幌市で被保護者が痛風のため公共交通機関での通院に不便を生じたため弟に車を買ってもらったことを理由に保護取り消しを強要されたと訴えた記事が報道された。



事の真相はともかく、基準は大切であるが、個々の生活を見る視点が福祉援助の専門家に欠けていたとすれば、これは何のための援助者か問題になるだろう。



人を不幸にするために社会保障制度があるわけではないし、そこに関わる人間は民間であろうと行政であろうと、専門家としての知識と技術、見識を持つべきで、それは人を人らしく見る見識だ。



自然や社会情勢が人をおろおろしくするのではなく、関わる人間が、おろおろしい状況を作ることがあってはいけない。


福祉は自分だけが幸せになることではなく、誰もが幸福感を感じ、心の平安を得ることができることと思う。