Allo介護の不思議な世界

こんにちは!介護ブログ管理人です。 この記事は介護は難しい、わかりにくい方に向け、初心者でも簡単に紐解いた解説をします。 介護保険は、3年毎に改正されます。この記事を読むと、最新の介護事情や歴史に触れることができます。 とは言え、一体どうしたらいいかが分からない…というあなたのために、一日一つブログをアップし解説したいと思います。 この記事を読み、実践する事であなたも介護の達人になりますよ! ですので、ブックマークをつけて、じっくりと読み進めながら取り組まれてみてください。

介護の現場で、看取り介護を実践している方に問いたい!

f:id:bochifuntou:20180927000206g:plain





死の直前に必ず現れる状態の一つに、下顎呼吸(かがくこきゅう)がある。



これは酸素の取り込みが少なくなることで、顎と喉の筋肉を動かして酸素を取り込もうとする呼吸状態で、あえぐような状態になる。そのため下顎呼吸を一度も見たことがない人は、その状態を苦しんでいる状態と考え、なぜ酸素吸入をしないのかと疑問を持つ場合がある。



しかし下顎呼吸状態のときは、酸素の取り込みが少なくなって体内の二酸化炭素濃度が上がるために、脳からエンドルフィンという麻薬物質が出て、下顎呼吸を行っている当事者は恍惚状態になる。つまり苦しくないわけである。この時に酸素を入れてしまえば、体内の二酸化炭素濃度が下がり、エンドルフィンが出なくなるので、対象者を苦しませることになる。



だから死を直前にして下顎呼吸を行っている人に対し酸素吸入することはない。この時間違ってはならないことは、下顎呼吸は意識が無い状態だから苦しまないということではないということだ。あくまでエンドルフィンの生成によって恍惚状態になって苦しくならないのであり、酸素吸入しても意識は戻らないが、恍惚状態ではなくなり苦しんでしまうということである。



このことを看取り介護に携わる人々は、事前に家族等に説明しているだろうか?



また看取り介護の際に、対象者の意識が無い状態で、息をするたびにのどの奥でゴロゴロと音がする ことがある。呼気・吸気両方で音がする場合が多いのだが、この状態を死前喘鳴:しぜんぜいめい(デスラッセル:Death Rattle)と呼ぶ。



意識があり、咳き込みながら、喉がごろごろと音がすれば、死前喘鳴ではない違いに注意が必要である。



死前喘鳴は、数時間ないし数日間で死に至る可能性があるということを示す徴候で、48時間以内にお別れの瞬間が来るといわれている。



このとき家族等から苦しそうな音を出しているから、痰を吸引してほしいと言われることがあるが、吸引しても痰がない場合がほとんどであり、音は消えない。



死前喘鳴の原因音は、喉の奥で唾液が溜まっていたり、気道の分泌物が鳴る音であったりするので、痰が原因ではなく、苦しみも伴わないものなのである。よってのどの奥にチューブを突っ込んで、痰を吸引することはかえって苦痛を与えることになってしまう。むしろ口腔内の唾液を綿花などでとるだけにとどめたほうが安楽を阻害しないだろう。



そのことも事前に家族等に説明しているだろうか?



死前喘鳴という状態がみられ、家族が痰の吸引を望んで訴えたときに、そうしたことを説明するのではなく、看取り介護に移行する際に、終末期の身体状況として予測される状態については、あらかじめ説明しておくことが大事である。



看取り介護では、安楽と安心の介護が何よりも必要なのだから、こうした知識は看取り介護に携わる職員全員が持ってほしいものだ。



ところで死前喘鳴の人に痰吸引を試みることは、かえって看取り介護対象者を苦しませかねないと書いたが、看取り介護対象者の中には、毎日痰吸引が必要とされている人がいる。その人たちは、痰吸引によって、安楽が得られているのだろうかという疑問を感じる方は多いと思う。



そもそも痰吸引は、安楽介護なのだろうか?痰を吸引されている人の表情を見ると、痰が出てむせているとき以上に苦しがっていないだろうか?



そう考えると、痰が出て吸引すればよいと考える以前に、痰がなぜ吸引しなければならないほど出るのだろうと考える必要もあるのではないだろうか。



足がパンパンに腫れているにもかかわらず、まだ続けられている意味不明の点滴が痰の原因なのかもしれない。足の腫れを見て点滴をやめた途端に、痰が出なくなる人は多いことを知っているのだろうか・・・。



看取り介護の場で不必要な点滴を続けられている人に対し、一生懸命に痰の吸引をしながら看取り介護対象者を苦しめている看護職員や介護職員が、この国に何百人もいるのではないだろうか。そういった間違った看取り介護の方法論を変えていく必要もあるのではないだろうか。



知識がないということは、特定場面では罪深い問題なのだということを心してほしい。