Allo介護の不思議な世界

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認知症の人の現実【リアリティ】と行動受容

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自分が良かれと思って行動しているのに、それを全否定されるかのように非難されたらどう思うだろう。



自分が何かをするたびに、「危ない」・「ダメ」・「何してるの!!」と叱られるとしたら、どんなことを考えるだろうか。



自分が何かしようとするたびに、誰かが自分の行動を見張るようについてくるとしたら、どう感じるだろう。



そのような状態に置かれた人は、周りの人は悪意を持った人ばかりだと思うだろう。そんな場所には居たくないと思って、どこか別の場所に行こうとするだろう。自分が何も悪いことをしていないにもかかわらず非難し、罵声を浴びせる人は、自分を攻撃する悪者にしか思えないだろう。その罵声に耐え切れず、思わず声を荒げ、場合によっては衝動的に殴り掛かるかもしれない。



そのような状態に常に置かれているのが、「認知症の人」の現実ではないだろうか。



動かないで、しちゃだめ、立たないで、ちょっと待って、という言葉の拘束をスピーチロックという。このスピーチロックは、認知症の人にとってストレスそのものである。



認知症の人は、自分の視線の範囲にコンピューターがあったとしても、それが何かわからない。コンピューターから伸びている各種コードは、誰かがひっかけて転んでしまう危ない障害物に見えているかもしれない。だから、「善意」でそれを片付けようとして、コードを引っ張ってしまう。



そうした善意の行為であるにもかかわらず、いきなり大声で、「ダメ~!!」、「何してるの、やめて!!」と怒られるのである。その言葉は、自分の行動を監視する悪意ある誰かが罵声を浴びせている言葉としか思えない。だからこんな場所には居られないと、どこかへ行こうとするのだ。そうするとその人は、徘徊行動があって離設の恐れがあるというレッテルを貼られてしまう。



しかしそれはスピーチロックという、不適切な対応によって引き起こされた問題であり、行動・心理症状(BPSD)は、認知症の人の問題というより、不適切ケアの結果であり、不適切な関わり方をどうにかしなければならないという問題なのである。こうしたスピーチロックを失くすことで、行動・心理症状は軽減する。



「ちょっと待って」という言葉は、「~しているので、ちょっと待ってもらえますか?」と言い換える必要がある。



「座っていて」という言葉は、「~すると危ないので、座っていていただけますか?」と丁寧に説明を加えて、お願いする言葉に換える必要がある。



このように言い切りではなく、相手に尋ねるような形をとると「相手に選択権がある」話し方になる。それは介護サービス利用者に対するマナーを意識した言い換えと言えるだろう。



認知症の人の記憶は毎日失われる・・・というより、アルツハイマー型認知症の人は、脳の器官の中で、情報処理をつかさどる海馬の機能が失われてしまっているので、新しい情報を記憶できない。



認知症の人であっても感情の記憶は残るが(感情の記憶は小脳がつかさどっているためである)、人の顔や名前の記憶(意味記憶)と近直の出来事の記憶(エピソード記憶)は残らないから、昨日対応したあなたが、昨日の時点で認知症の人に受け入れられたとしても、今日は認知症の人の記憶の中に、あなたという人物は存在しない。



だから昨日通じ合った認知症の人にであっても、朝最初に出会った瞬間のあなたは、「知らない誰か」でしかない。



知らない人に突然ため口で、馴れ馴れしく話しかけられたら、あなたはうれしいだろうか?見知らぬ誰かが、朝元気に大きな声で挨拶したら、この人だれ?という警戒心が先に来るのではないだろうか。



だから職員が朝最初に出会ったときに元気に笑顔で「おはよう~!」というのではなく、人生の先輩である利用者に対して挨拶するのだという気持ちを忘れずに、認知症の人にはゆっくり近づいて、丁寧に「おはようございます。」と挨拶すべきである。それもできるだけ驚かせないように、静かにゆっくりと云う方が良い。



それはとりもなおさず、認知症の人に対しても、サービスマナー精神を持って接する必要があることを表していると言ってよいと思う。



認知症の人は記憶や見当識の障害があると言っても、何もわからなくなているわけではない。説明すればわかることもあるし、納得できることもあるのだ。理解して納得した状態が長い時間続かなくとも、すぐ忘れて同じ行動を繰り返したり、同じことを尋ねたりしたとしても、その都度説明することで安心したりできるわけである。



それは決して無駄ではない。なぜなら尋ねて答えてくれた内容は記憶できなくとも、答えてくれる安心できる人がそこに居ることは、感情の記憶だから、小脳にその記憶は残される。



あの人はいつも優しく答えてくれる人という感情の記憶は残るから、その人の顔と名前を忘れて、朝の挨拶の時に怪訝な顔をしていたとしても、会話を交わすうちに感情の記憶がよみがえってくるから、この人は安心と思ってくれる。安心する状態に、昨日より今日の方が短い時間で達することができるのである。



介護サービスの場で認知症の人が感じていることがある。



「ここはどこなのだろう、自分は何故ここにいるのだろう、どうやってここに来たのだろう。」
「ここは何で年寄りばかりなのだろう。」
「ここは病院なのか。どして自分がこのような場所にいなければならないのか。」
「あの若い人は何故自分の名前を知っているのだろう。」
「何か薄気味悪い。どうして自分の後を、知らない人がつけてくるのだろう。」
「知らない人が、なぜ自分に馴れ馴れしく話しかけてくるのだろう。」
「年下の人間がなぜ自分に横柄な言葉や態度で接してくるのだろう。」



認知症の人の行動が理解できなくなった時、認知症の人は今、こんな風に感じているのではないかと思い起こすことで、我々が今しなければならないことが見えてくるかもしれない。



認知症の人の行動受容とは、こんなふうに認知症の人の立場に立って、考えてみることから始まるのではないだろうかと思う。