Allo介護の不思議な世界

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官僚と学者が考えるケアマネジメントの標準化はリスクが高すぎる

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ケアマネジメントの標準化が何よりも大事だという人がいるが、れは危険な発想と思う。



特に居宅介護支援事業所のケアマネジメントは、社会資源を利用者と結び付けてスケジュール調整することが主になっており、個々のサービスの内容はサービス事業所のプランで決まるんだから、居宅ケアマネジメントを標準化させようとすると、サービスの品質の標準化にはつながらず、標準ではないとされたサービスを排除させるだけの給付抑制プランが増えることになるだけだ。そうした画一的なケアプランがスタンダードとされる可能性が高くなる。



そもそも介護支援専門員の価値観だけでは測ることができない個々の暮らしの個別性にアプローチすべきケアマネジメントに、本当に標準化が必要なのか?



官僚と学者の標準化必要論を闇雲に受け入れるケアマネばかりなのはどうかと思う。特に役人はシステムと基準づくりに躍起となる傾向が強い。それに乗っかっておれば責任を取らなくて済むからだ。人の暮らしには何が重要なのかわからない無能な役人、そのことを考えようとしない無責任な役人は、法の条文や通達の文面だけをなぞって、それを闇雲に実行しようとする。そして前例だけを重視するようになる。いわゆるお役所仕事だ。それは疲弊した役所のシステムだ。



本当に有能な人材は、そのような疲弊したシステムを必要としない。有効なシステムというのは、原則を大切にした即応性のある柔軟なものである。特に人の暮らしに関わるケアマネジメントに、通達の文面も無効だし、前例など何の役にも立たない。それが「標準化」という発想で、限りなくお役所仕事に近づかされることに誰も気が付かないのは何故か。



それにもまして悪質なのは、この標準化の推進者の中に、大学の教授・准教授という肩書を持つ学者が加わっていることだ。奴らの本音は、標準化という名の基準を作り上げる先に、標準化に当てはめるための「伝導役」という利権を得ようとしていることだ。それはケアマネジメントを人質にして、自分の懐を温めようとする腹黒い企みに他ならない。そんな腹黒い考えではないとして、この標準化論に乗っている学者は、無能で無責任な役人に踊らされているだけの存在でしかない。



日本介護支援専門員協会は、シンクタンクとしては、全く役割も果たしていないのだから、このあたりの議論の展開に影響力を持ってほしいなどという期待はしていない。現にこうした議論の最中にあっても、「ケアマネにも処遇改善を」と、自分の財布の中身を増やしたいというような能天気な主張しかしていない。こんな団体に物事の本質を見極めてソーシャルアクションにつなげるという能力はないだろう。



せめてケアマネ実務に携わっている方々は、この問題点に気が付いて議論に何らかの一石を投じてほしい。



そもそもケアマネジメントの標準化議論の背景にあるものとは、ケアマネジメントの質議論である。確かに現行のケアマネジメントが批判される大きな理由は、「質の差」であることは間違いのないところだ。



居宅介護支援を例にするならば、利用者支援の達人と言えるような素晴らしい仕事をしている介護支援専門員が存在する一方で、自分が計画したサービスが絶対で、それに異を唱える利用者は排除して、言いなりになる利用者だけを選んでいる介護支援専門員さえいる。そしてそういう人に限って、支援効果としての、「利用者の生活の質」はほとんど上がらず、自社のサービスに利用者を囲い込むだけの結果しか残さない人がいる。そういう結果しか求めない人さえいる。



しかしこの「質の差」とは、ケアマネジメントの質の差以前に、介護支援専門員という有資格者のスキルの差ではないかと思う。それは人間力の差であると言い換えることができるかもしれない。介護支援専門員間の能力差が問題となっているのだから、この部分はケアマネジメントの手法でどうにかできる問題ではなく、介護支援専門員の資格取得過程の見直しをする以外の処方はあり得ない。



個人の大きなスキル差を放置したままで、ケアマネジメントという手法だけを標準化した先に起こることとは、標準化された方法なりツールなりが絶対視され、その方法でケアプランを立てておりさえすればよいという考えに偏る介護支援専門員をたくさん生み出す結果でしかない。



そこでは利用者がサービスを使った後の、「感想」や「評価」は、ニーズではなくデマンドであるとか、我がままだとかいう理由で無視されてしまう恐れがある。しかしそれが真のニーズで、利用者の希望に寄り添ったときに、課題解決の糸口が見えて来るなんて言う例は、枚挙にいとまがない。



そういう意味では、ケアマネジメントの標準化の果ての格差縮小とは、質の低いケアマネジメントに合わせて、達人ケアマネジメントが淘汰されてしまう結果につながりかねない。仕事のできる介護支援専門員が、ケアマネジメントの標準化というお題目の犠牲となって、そんなに頑張ってはダメだと烙印づけされるようなものだ。



それは市町村のインセンティブ交付金の見直し論と絡めて、ケアプランチェック強化による給付抑制と巧妙にリンクして行われることになる。



ケアマネジメントの標準化を勧める腹黒の学者連中は、当然このことをわかっていながら、悪意に手を貸しているとしか思えない。こんな連中の悪だくみに乗せられて、介護支援専門員の立場や役割が規定されてよいのだろうか。



そんな悪だくみの標準化論によって、ケアマネジメントの質が一定以上に担保されるわけがないし、介護保険制度が良くなるわけがない。現にケアマネ業務に従事している人たちは、そのことをしっかり理解して、官僚と学者の悪謀をつぶすためのアクションを、それぞれのステージで展開していかねばならないと思う。



そうしないと時々の国の都合で、ケアマネジメントの在り方が、どうにでも都合よく変えられることになることをしっかり自覚してほしい。



介護支援専門員は、国のために都合よく制度を運用する人ではなく、制度の光を一人一人の地域住民に届ける役割を持つ専門家であることを忘れてはならない。